ゆったりと世界を感じよう。
もうすでに愛の中にいて
実は愛こそが私たち自身で
その愛がこの世界を創造する力で
その力から生まれた私たち。
その力が動けるように
思考の道を手放そう。
コントロールできると思い込んでいる思考の道を手放そう。
それこそが幻想。
ただただこの愛の中に流れの中にゆだね
目の前に現れる瞬間の世界を生きる。
その喜び
その不思議
その生命の輝き
それがあなた。
あなたという生命があなたを呼んでいる。
愛すべきかけら by REIKO - Many inspired moments with nature and lovable things in my earth life.
ゆったりと世界を感じよう。
「私」という感覚装置を通して、感じること、感じていることを大切にしたいと小さい頃から思っている。 感じることは、正しさや信念、判断から遠くに位置していて、いつも求めている柔らかな世界にいることから離れない。
感じることに正解はない。
そしてそれを採用する勇気は自然に起きてくる。
どんな役割を日常で担っていても
あなたという存在は一つしかいない。
それがどれほど
すごいことなのか
無数に存在し
消えては現れ
忘れては思い出す
愛の流れ
生命の流れの中で
今のあなたは 今しか存在していない。
そんないとしい
わたし自身を愛する時間
生きている時間
りんごちゃんは一人でいるのが大好きでした。
りんごちゃんは人の中にいるのも大好きでした。
ただりんごちゃんは、ひとりぼっちでした。だれも、彼女の心を覗こうとしませんでしたから。というのも、りんごちゃんは、だれにも心を開けようとしなかったので。
人々は、これ以上は、とか、君のことはわからない、とか美味しくない、とか裏切りだとか
そういうふう形容したので。
りんごちゃんは、大丈夫そうに見えました。強い生命力と意志があるように見えたものですから。
いくつかの収穫の時期を経ていくつかの新しい土を踏み、とうとうりんごちゃんにも天使がやってきました。
「さびしかったんでしょう、ひとりで」
その声はりんごちゃんを真っ赤に真っ赤にしてりんごちゃんは、高い高い木の上から、ホトッと天使の大きな手のひらに、そして包まれました。りんごちゃんは、もうさびしくありませんでした。
ものがたりは、これでおしまいです。
にんげんもさびしくなるときがあります。
そういうときはどうしたらいいでしょう。
高い高い木にのぼってもっとずっと高いところへ行って、天使にでも拾ってもらいましょうか。土の中へ土の温かさの中へ落ちて踏まれて腐って誰かの養分になるのも悪くないですね。
でも、それはほんとに望んでいることでしょうか。
わたしにはわかりません。
わたしにはわかりませんが、ただわたしには、りんごちゃんはだれといてもさびしいときを感じているように思えます。
本当のところはわかりませんが、さびしさは、間の大事な音だとおもいます。
私と貴方の。
貴方と世界の。
貴方と貴方の。
叩いてみませんか、とりあえず、まずはそっと。
「あの、いますか?」
むこうも叩いてくるかもしれません、さびしさの音を。
本当にはわかりません、でもきっと叩いたら、貴方の耳にも音がきこえてくるはず。
「あの、いますよ」って。
LOVE
それは、すべての感情すべての思考がそのままで、そのままの自分で、あっていいことを受け入れている世界。
人間には色々な感情があるし、色々な思考がどこからかやってきては過ぎ去って、またやってきては過ぎ去って繰り返される。嫌な感情や思考の中にいるような時には、ほんとはみんな愛されていて、愛されるのに条件なんてないって思えないかもしれない。LOVEの中にいるということは到底感じられなかもしれない。
でも、少しだけ、ほんの少しだけでも、その思考もその感情もそのままにして、そのままに消さなくていいから、そのままにして、ここにいよう。
何もないところに、優しい風があらわれてくる。
何もないところに、大丈夫だよと囁く声が心に響いてくるよ。
生まれる前そして生まれた後も、みーんなはじめからLOVEの中にいて、大丈夫な世界を持ってここにいるってことを、だんだん感じられて、ああそうだったかもしれない^_^ なんて。
オープンに オープンに 開いていこう♡
忘れたら何度でも戻って来ればいい。
それは消えたりしない。
いつだって自分に優しい世界がここにある。
ここ
それは自分そのもの♡
10年くらい前に書いていた日記を残していることを思い出して、最近読み返していた。それで気がついたことは、感じたことを言葉にするための時間をつくっていたことだった。自分のために自分のことを知るための時間。それがここ数年で海外ドラマに変わり、インスタグラムで美味しいパン屋さんを探したり、他人がつくった日常をのぞいて見たりと、きっとそしてもちろんそれは、自分の何かのためだったりするんだろうけれど、それはそれで楽しかったけど、昨夏のビーズ刺繍熱に心身突き動かされてただただ完成するまで黙々とビーズを重ね続ける新しい動きに夢中になる時間を過ごし、「ああ、これだった、この感覚。」って大事な忘れ物を取り戻せた感じがした。
何かの役に立つわけでもなく、ただ自分のために自分を知るために時間を存在させる。自分が感じたことをぴったりの言葉で表現できた時の喜びは、自分という生命が日常の背景になってしまいそうな分離感から救済するわたしにとっては大切な鍵なんだって今更ながら、そうかそうかってわかって嬉しかった。
自分のための言葉を、自分のために見つけ続けたい。
誰かはそこにいない。けれど、全てはつながっているこの生命の物語の断片で、同じように自分を大切にしている誰かとつながって、言葉は、その内部で新たな鼓動を始め、この生命の物語の空できらめく星になるんだ。
自分が、よく通っている場所、思いを込めている場所がある時つながる。ばらばらに思えた見えた幾つもの経験や感情や人の流れが、ある日、ある場所で、つながる。名前は変わっても最終目的地は変わらない。
行き着きたい場所へ行ける。
それは徒歩でも、タクシーでも、電車でも、飛行機でも。
そして、時が来ると。