Translate

2025/03/13

自分を知るための時間

 


10年くらい前に書いていた日記を残していることを思い出して、最近読み返していた。それで気がついたことは、感じたことを言葉にするための時間をつくっていたことだった。自分のために自分のことを知るための時間。それがここ数年で海外ドラマに変わり、インスタグラムで美味しいパン屋さんを探したり、他人がつくった日常をのぞいて見たりと、きっとそしてもちろんそれは、自分の何かのためだったりするんだろうけれど、それはそれで楽しかったけど、昨夏のビーズ刺繍熱に心身突き動かされてただただ完成するまで黙々とビーズを重ね続ける新しい動きに夢中になる時間を過ごし、「ああ、これだった、この感覚。」って大事な忘れ物を取り戻せた感じがした。




何かの役に立つわけでもなく、ただ自分のために自分を知るために時間を存在させる。自分が感じたことをぴったりの言葉で表現できた時の喜びは、自分という生命が日常の背景になってしまいそうな分離感から救済するわたしにとっては大切な鍵なんだって今更ながら、そうかそうかってわかって嬉しかった。


自分のための言葉を、自分のために見つけ続けたい。


誰かはそこにいない。けれど、全てはつながっているこの生命の物語の断片で、同じように自分を大切にしている誰かとつながって、言葉は、その内部で新たな鼓動を始め、この生命の物語の空できらめく星になるんだ。






2025/03/10

仔豚の花摘み|はじめてできた友達のこと

 



4歳まで祖母の手で育てられた、そう言ってもいいと思う。仕事を終えた母が私を迎えに来るまでの子どもの一日の時間祖母の家は市内から車で10分ほどいったところ。回りは田んぼで何処までも見渡せる山の頂へも、きっとここから近いんだろうと確認できるくらい、景色は広く遠かった。



田んぼの土手に咲くシロツメクサやお庭の小さなお花たち、近所の豚の飼育場の新ちゃんのところでヒヒヒと鳴く仔豚をわたしはたくさん、たくさんの時間じっと見ていた。

どこにでも根をはっていて、「あなたは、どこから来たの?」って聞きたいんだけど、やっぱりそんなのは無意味な質問だよね、なんて。とうに人間の限界的な質問を超えた世界で咲き出している小さな花は、いつでも花として堂々と地球で生きている。


ヒヒヒと泣く豚の皆さまには、「あの、わたくしはほんのにんげんの子どもであなたのお友達をいただいていまして」と、自己紹介して勝手に承認して勝手に知り合いになったり。




                      


5歳の時初めて保育園という子どもだらけの場所に行った。

入園最初の日、花と仔豚がお友達だった世界に初めて人間の子どもが、しかもむこうからお友達と名乗ってくれたとき、「はじめからそうだった、わたしたちはお互いをずっと前から知っていたって。」こころの中の不思議な感覚。



未来のある日に彼女が逝ってしまうことを5歳のわたしは知らないけれど、人見知りだったわたしをずっと守ってくれていた彼女は、にんげんではなく天使だったと思う。



「だいじょうぶだよ、わたしがいるからね」って最初の初めての挨拶もないままそんなことを言うから、由佳ちゃんは本当は子どもではなくてやっぱり天使だったし、泣いていたわたしに、ここにいたのねって目でいうから、まじめに、わたしにいうから、やさしくて、おどろいて、もっとわたしは泣いた。


















2025/03/01

仔豚の花摘み|砂漠の民を踊る保育園児の自分




小学校に入る前の2年間、わたしと由佳ちゃんは4回の誕生日会をし、年に数回泊まりあって遊んだ。押入れごっこが好きで、押入れの上下を部屋にして小さな主人になったわたしたちは、新しいご近所付き合いをやったり、押入れという暗闇になるその中にきっとあってほしいトンネルや人間以外の者たちの気配を期待して楽しかった。


由佳ちゃんのお母さんは、ゴウヒロミの大ファンで、いつも由佳ちゃんちの車にはゴウヒロミがいた。


保育園の年長組みになると秋にはお楽しみ会が行われて、わたしたちは「砂漠の民」を踊った。緑のサテン地のパンタロンとピンクのサテン地のパンタロンにターバンを頭に巻いたわたしと由佳ちゃん。


踊ったときの気持ちはもう忘れたけれど、アルバムで待っている写真はほんとうに一緒に踊ったんだっていう事実を、いつまでも忘れさせない。




会いたいな、もうどこかで何かに生まれ変わっているのかな。