愛すべきかけら by REIKO - Many inspired moments with nature and lovable things in my earth life.
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2024/12/23
現実世界の営みを支える別次元の力
2024/12/10
now is all .
イマジネーションはどこまでも行ける。
身体は今を十全に生きている。
痛みも
安心も
嬉しさも
不安も
同時に存在して豊かにこの今を構成している。
想像の豊かな世界も
今の豊かな世界も
今に存在して
生の動きに共鳴している。
2024/12/09
やっと行けた♡ライブ!名古屋ぁ
2024/12/01
シャタバリのママの喝!
2024/11/26
2024/08/29
ビーズ刺繍熱と暑い暑い夏
2024/08/20
CLAMP展 20面相にお願い!!
中学生の時に、友達から借りた漫画の中にあった、その後の私のお守りになっているフレーズ、大人になってもずっと心に残っていて、いつか漫画のタイトルを思い出したい!と願って2024年。
画は覚えていて、キャラクターもかすかに記憶に残っている。でも、あれかな?これかな?ってわからなかった。
それが、漫画好きの妹がCLAMP展にいくとの情報で、なんだか胸騒ぎ聞いたことがある名前。もしかしたらこれかも?
とフレーズとCLAMPと検索したら、なんと!引っかかった!!
ずっと探していたものがついに!
20面相におねがい!!
「まず何よりも
自分のことが大好きでなくちゃ」
2024/08/04
太陽の訪問と花たちとの会話
永遠にやってこない答え
2024/07/21
2024/05/17
思考として生きている「わたし」の終わり
条件がついていない愛。
それは私たち自身の中から湧き出てくる感覚があるために、私たち自身であると感じる感覚が起きる。
けれど、そのぬくもりや圧倒的幸福感と安心感をもたらすその愛は、分析したり、判断したり、比較したり、こうあるべき、これが当たり前などと社会通念を生きている「わたし」のことではない。
この時、貴方は思考として生きている。
面白いのは、この「私」という思考とは別に、気づきの意識が存在している。気づきの意識は、思考として生きている貴方と、圧倒的な条件のない愛のエネルギー場の橋渡しをしている。
圧倒的な幸福感と安心感の場は、静寂の場。
外に向かって何かをしなくてはいけないような感覚が何もない意識の場。
起きてくることは雲のように流れていき、気にとめる必要性が起きてこない。
思考の習慣的言動が発動しなくなる。
貴方は貴方を取り戻して、生命からの貴方を生きることができる。
WELCOME!
2024/02/01
chemin 全てにはいつか終わりが来る。
ありがとうパンさん。
2024/01/23
音楽を感じる喜び
2024/01/17
その時「わたし」は存在しない。
私は土であり、私は空であり、私は光であり、私は影であり、私は神であり、私は愚者である。
そのようである時、私は存在しない。
私という謎。
私というドラマ。
私という特別な存在。
私という存在しない特別な幻想への、特別な負荷をかけた価値。
私という存在は、なんにでもどこにでも在り、そしてあたたかな感触を持つ。
2024/01/09
内的世界と外的世界の間で。Between you and you
子どもの頃から、不視覚的世界に心ひかれ、それを言葉や絵で知覚化することに興味がありました。心や、感覚、存在、意識、時間、etc... その仕組みや概念について考えたり感じたりすることが大好きでした。
目に見えない世界に気持ちを向けている時、心がグーンと広がって、柔らかく温かなエナジーが自分を包んでいる感覚になり、安心します。そのことに関わって過ごす時間は何よりも楽しいことで、心身が満たされる、自分にとってとても特別な大切なものです。
わたしが大好きなその世界では、正解がなく、時間軸は流動的で”エネルギー” ”意識”などと表現される何かが現実の土台をつくっていると理解され成立しているところでもあります。
こうしたメタフィジカルな世界観を通して、つながった方々へセッションやクラスができることがとてもうれしいです。私個人だけではなく、エネルギー的な仲間と行うワークは、自分の知覚が解き放たれて広がり、心身が深くリラックスし、自分自身と深い深い調和で満たされます。理解を必要としない圧倒的な脱力と幸福感が心身にやってくる。
開かれた知覚によって、星や花や樹木とのコミニュケーションに無邪気になり、心の中の静寂の声が人生を励まし、いつも導いていることに信頼が生まれると、未来がどうなっていくか、自由意思はあるのか、運命は決まっているのかといった質問がすでに人生の経験に制限をつくっていることに気がつき肩の荷がおりる瞬間がおとずれる。「好きなこと」「楽しいと感じること」に単純に純粋になり、楽観が背中を押して人生の歩みに快活なエネルギーをもたらしれくれる。
けれども、一方で、知覚力が高まり意識が目覚めていくと、さまざまな気づきが起きてきて、過去と新しくなる自分との間に混乱が生じる時期がある。内なる声が、エゴなのか、自分を解放する真の声なのかを見極める必要があったり、本音が分かっていても無意識的習慣から抜け出せなかったり、自分に許可を出せないでいたり、加速する知覚力を止まらせようとする抵抗が働き葛藤がおきて、後退しているように、見えない世界など知らないでいた方がよかったかのように、そんな世界はまやかしだと正しい認識をするのは私だ!とマインドが主導権を返還しようと必死になっているの頭の声を聞くかもしれない。その声を「私」と思い込むとますます苦しくなる。
けれど。
それは仕方がない。これまで比較検討して論理的に判断することが正しい、根拠があることが正しいとされる目に見える世界の認識、価値基準に生きていたところとは、全く違うところに意識が開いていくのだから。
そのような時は、目に見えるものと目に見えないものが交差している身体に意識を向けて。その考え、場所、行動、日常生活の動きの中で、身体が安心し、リラックスするかどうか、感じることを優先する。いまここに存在する自分の身体感覚から離れず、意識を頭から身体へと戻って、感じることを意識する。私たちは物理的次元と連動して存在している。現実世界をないがしろにした高次元とのつながりは、単に言葉通りの夢幻に過ぎない程度の関係性にとどまる。
内的世界に心を開きはじめると、自分をずっと守り導いている何かが在ることに意識的になっていく。ハイヤーセルフとか守護存在とか無とか愛とか潜在意識とか、いろいろな名前で表現される”それ”が自分の人生の旅を共にしている、というかそれも自分の一部であり、「自分」という定義にも変化が起こされてきて、いよいよ既存の「人間とは」を突き抜けていく。
世界は、エネルギーの表現形態であり、目に見える表現と目に見えない表現がある。人間も同様、目に見える形としての物質的表現と思考や感覚、波動など目に見えない表現の両方を持ち合わせて存在している。いまのところ、人間は必ず肉体の死を迎えてその表現を終える。この短い地球滞在の間、この生命の性質が十分に発揮され、心身が満たされる時間を過ごせるように、それぞれの身体のちから、生命のちからを持って生まれてきている。