社会的な活動は動けば動くほど、たいていは広がりを見せて、意思の使い方に面白さを見出したり、広がってく人間関係で交わされる感情、言葉の中に見え隠れする本音に遊んで、波乗りが上手になったと感心したりする。
ここ10年はそんな感じで、物質的世界を生きる(人間としては当たり前すぎて、おかしい表現かもしれないけど)ことに集中して経験を積み重ねてきた。今思うのは、この物質世界の波乗りを、波乗りとして認識する自分の感覚があったからやってこれたかなと思う。それがなかったら?そんなことは、それがない自分はそういう疑問さえ思いつかないから分からないけれど、「波乗り」としての日常を感じる自分で生きている自分はやっぱり、意識世界から見た世界観を使うことが好きなんだなぁと思う。
現実世界で見えること、経験すること、人々の動き、社会の動きが、どこか過去のように、すでに経験されたことの上映のように感じている。それは小さい時からそうなんだけど、だからと言って、観客席にいるわけではなく、自分が実際に体験するときには感情が動いて人間ぽい行動をしていて面白い。体験している最中もどこか観客席にいる意識があって、その意識が強く働いているから、何が起きても大丈夫だという思いが湧いてくる。
意識は見えない。現実世界の日常をいつも応援してくれている。それは意思の力ともいうかもしれないけれど、自我だけで動いているわけではない何か、地球のマジョリティは自我のみを自分として創造された世界観だけど、自我を支える見えない力を自分の中に感じはじめた時、自我の思いと共に波が波をつくり、風が風をつくり、道が道をつくる波乗りになる。自我以外のエネルギーを感じながら進んでいく人生は、「私」の認識を拡大させて、ここに生きている理由も変わっていくかも。